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【宇治旅備忘録②】平等院鳳凰堂のみどころ

世界文化遺産にも登録されている国宝「平等院鳳凰堂」。

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約1000年もの時を超えて今なお美しく佇む姿からは平安時代の栄華だけでなく、末法思想の広がる世の中に対する一抹の不安を抱き、極楽浄土への往生を切に願っていたという当時の人々の想いを感じることができます。

 

1.平等院鳳凰堂はどういった背景でつくられたのか?

 

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平等院が創建された1052年当時は末法思想が広がっていました。末法思想とは、釈迦が死んでから2000年後には釈迦の教えが衰退し、荒れた世の中になる「末法の時代」がやってくるというものです。1052年がちょうどその「末法の時代」が始まる年とされていた上に、国内では疫病や天才、飢饉などが続いたため、人々の間ではこの世の終わりが来ると不安が高まっていました。そんな時代に源信というお坊さんが「末法の時代に生きる自分たちは地獄に落ちる運命にあるが、浄土教の修業を行うことで極楽浄土で生まれ変わることができる」とときました。そしてその修業として極楽浄土の様子や阿弥陀如来の姿を心に描き、念仏をひたすら唱えるよう勧めました。

この浄土教の教えが貴族の間で広がり、極楽浄土の様子や阿弥陀尿来の姿を目で見て心に描きやすくするように絵、彫刻、建物が盛んにつくられたそうです。

 

別荘をお寺に変えるほどに当時関白であった藤原頼道も末法の時代を憂いていたのでしょうね。

 

2.極楽浄土の宮殿をモデルにした「鳳凰堂」

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平等院のシンボルである「鳳凰堂」は創建当時はまだ「鳳凰堂」ではなく「阿弥陀堂」や、「御堂」などと呼ばれていたそう。江戸時代から屋根の上にある金銅鳳凰やお堂の形自体が鳳凰が羽を伸ばした姿に見えることから「鳳凰堂」と呼ばれるようになったそうです。
平等院阿弥陀堂だとなんだかしっくりこないですよね(笑)

 

こちらの鳳凰堂の中央で遠くから見ることが出来る阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の名仏師「定朝(じょうちょう)」による作品。また阿弥陀如来坐像の周りには52躯の雲中供養菩薩像(国宝)が取り囲み、壁扉画には9通りの阿弥陀如来來迎の様子が描かれています。この壁扉画を当時の色鮮やかな状態で再現したものをミュージアム鳳翔館にて見ることができます。そこには命尽きようとしている人々のもとに阿弥陀如来様がお迎えに上がっている様子が各所に見ることができます。

今回は時間が遅くて行けなかったのですが、鳳凰堂内の内部拝観は9時30分から20分おきに行っていて、国宝であるこの阿弥陀如来坐像を間近で見ることができます。次回こそは説明を受けながら、当時の彫刻・建築技術のすごさを目に焼き付きたいと思います。

 

ちなみに現在屋根の上に載っている金銅鳳凰は2代目で初代は「ミュージアム鳳翔館」で見ることができます。初代を近くで見ると昔は鬣もついていたのだそう。

 鳳翔館内は撮影禁止のため入り口だけのせておきます。

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3.平等院鳳凰堂の見事な御集印

 

平等院での御集印は六角堂近くにある集印所にていただきます。

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平等院では「御朱印」ではなく、拝観の証としての印を紡いでいくということで「御集印」というそうです。「鳳凰堂」verの御集印を頂きました。後から知りましたが、梵字の印が押された「阿弥陀如来」verもあるみたいです。

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4.平安時代末期に活躍した源氏の武将

 

平等院内には源氏ゆかりの場所もあります!
鳳翔館ミュージアムをでたあとの道を歩いていると、源氏名のお墓があるのを見かけました。後から調べてみると平安時代末期の武将で歌人としても有名な源頼政の墓所でした。「扇の芝」という頼政が平家軍に攻められ、最後に自害した場所も平等院内にあります。源頼政が軍扇を広げ「南無阿弥陀仏」と唱えながら自害したことから「扇の芝」と呼ばれるようになったそうです。

 

次回はもっと時間をかけて平安時代末期に生きた人々の思いをより感じたいです。